“○”で行こう。

昨年亡くなった祖父の、1日早い1周忌でした。
いつもお世話になっているお寺さんは、今回は息子さんの方がいらっしゃってました。
このお寺さんは30代半ばで茶パツ、趣味はバンド活動という人で、一見お坊さんにはさっぱり見えません。でも、バンドやってるだけあって、お経は美声なんですよね。
読経後のありがた〜いお話も、笑いがやむ事のない講談のようでした。さすがに話の内容はありがた〜いのですけどね。


浄土真宗の御本尊は、阿弥陀さまではなくて、南無阿弥陀仏という“言葉”なのだそうです。
南無阿弥陀仏とは、南無=頭が下がる(挨拶のナマステのナマス)、阿=否定の言葉、弥陀=計る(メートルの語源、ミター)、仏=尊敬する人(ブッダ)という意味を持つサンスクリット語で、頭が下がるくらい尊敬する計り知れない人という言葉だそうです。


大抵の人間は“○”や“×”を判別する“ものさし”を持っています。でも、それに振り回されると、自分と違う人間を差別したり、自分を卑下したりしまいがちです。
例えば“老い”が悪い事、つまり“×”ならば、人はこの世に生を受けてから“×”の終末に向かって進んでいく事になりますし、老いて死ぬ人は“×”そのものになってしまいます。
しかし、それはあくまで個人の小さな“ものさし”で、それを超越したものとして、“南無阿弥陀仏”という言葉があるのだそうです。自分の狭い価値観に振り回されないために、その事を忘れないようにしなければならない、と。


命日とは、故人を偲ぶだけではなく、故人が教えてくれた命の大切さと、自分の“ものさし”を見つめ直す日なのだそうです。
そして、“×”ではなく“○”に向かって生きて行きましょう。


ありがたや、ありがたや。
やはり人は外見などで判断はできません。茶パツの若いお坊さんでも(これも差別っぽい言葉ですが)、お説教はやはりありがたいものでした。