短文・トラウマ

──苦手なものがあります。
おそらく、一番苦手なものは“犬”です。
昔、すぐ近所に小さなレストランがあって、おそらくブルテリア系の犬が飼われていました。
その犬は、何故か片目がつぶれていました。
当時小学生だったわたしが家に帰る途中、どこからか「グルル……」といううなり声。レストランの方を見ると、明らかにわたしを威嚇している犬。その犬は放し飼いになっていたのです。
片目が潰れた犬は、わたしに向かって吠えながら襲いかかりました。大慌てで走り、ほんの数十メートル先の自宅へと駆け込みました。
ドアの向こうでは犬が狂ったように吠え、何度も何度も体当たりし、爪をガリガリ立てている音が聞こえました。
その日から、わたしはその道を通って学校に行けなくなりました。
後にその犬は、赤ん坊連れの母親にまで襲いかかり、犬を恐れて客足は途絶え、数ヶ月でレストランは潰れてしまいました。その場所には現在、大きなアパートが建っています。


どうしてあの犬は片目がつぶれていたのだろう。時々、そんなことを考えます。
近づく人間は全て敵と見なすような、トラウマに苛まれるような、辛い出来事があったのでしょうか。よほど酷い目に遭ったのでしょうか。
──だけど。
傷ついた犬が、報復で誰かを傷つけたからといって、その罪が消えるわけではない。
──苦手なものがあります。
でも、苦しみに捕らわれることは、時として人を傷つける。それはとても悲しいことだ、と思います。
あの犬の事を覚えている人は、もうほとんどいないでしょう。でも、わたしは時々、そのアパートを眺めながら思い出すのです。


お題もの書き:イヌ
http://www.cre.ne.jp/writing/event/2006/inu.html